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前期難波宮
645年、大化の改新によるクーデターによりここ難波の地に遷都してきた前期難波宮。
大都会の遺跡の為、歴史公園内のみが難波宮ではありません。
民間の建物の建設により遺跡が破壊され永久に姿をけしてしまった物も多く存在します。
そんな中、道路の下、民間の建物の下に施主の協力により運良く生き残っている遺跡もあります。
ここではそんな隠れた裏のスポットを紹介します。
裏のスポットと聞くとさらに気になるでしょ(笑)
内裏・平安殿
天皇の居住区である内裏。
その中心となる建物を前期難波宮では平安殿と呼ばれている。

内裏南門の真北、近畿電気通信局の敷地である内裏跡の中心部である。
いずれここは歴史公園の一つとなり難波宮歴史公園と大阪城をひとつの歴史公園として結ぶ計画が有り、今から楽しみです。

上の近畿電気通信局(平安殿)から内裏南門(難波宮歴史公園)を見た画像です。
この道路の地下(阪神高速の手前側)に平安殿が眠っています。

上の画像は上から見た平安殿跡を黄色で表しています。 赤は歴史公園。
高速の手前の道路は内裏・平安殿跡であるが石碑などの遺構表示が無い為知る者しかしらない隠れた重要スポットです。
遺構と景観を守る為、10年の論争の末、高速はこの区間のみ橋脚は使わず平地と同じ高さにまで下げて遺跡を守られています。
朝集院南門(なんもん)
「書紀」の事実に
天皇、小郡宮を処(お)りて、礼法を定む。その制に曰く、「凡そ位を有(も)つ物は、
必ず寅時に、南門の外に、左右羅列し、日の初めて出づるを
候(うかが)ひて、庭に就(ゆ)きて再拝し、乃ち庁(まつりごとどの)に待れ。
若(も)し晩く参(まうこ)む者は、入りて侍ること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鐘を聞きて罷(まか)れ。
其(そ)の鐘をつかむ吏(つかさ)は、赤の巾(ちきり)を前に垂れよ。其の鐘の臺(かけもの)は中庭に起(た)てよ。」といふ。
と書かれている。
前期難波宮は小郡宮であるという説も密かにあるので、南門でこの話鵜飲みにして空想しても面白いと思います。



(上のマップの青色に青くしている部分がこの南門跡。
難波宮公園敷地南側に面したマンション(グランディオーズ法円坂)に一部を失ったがオーナーの協力により復元保存されています。)
内裏東方遺跡
難波宮大極殿から東へ200m行った所にパル法円坂・メロディーハイム法円坂、及び市立中央青少年センターがある。

ここの建設に先駆けて昭和56・57年に発掘調査した結果
パル法円坂・メロディーハイム法円坂からは前期難波宮東方官衛(かんが:役所)跡と推定される2棟の高床式倉庫を中心に建物群が発見されている。

上のMAPの黄色く囲んだ地点が下の画像、倉庫跡です。

このように民間の建物であるにもかかわらず、遺跡を保存し遺構をタイルによりし表現されている。
オーナーの理解があったからこそ実現した現代の建物と遺跡の調和です。

朱雀門

大阪市立ろう学校の画像です。
平成5年、長年見つからなかった朱雀門跡がここの校庭および建物の下から前期難波宮・朱雀門跡が発見されました。
柱の太さは直径80cmもの巨大なものです。
火災の跡がある事から前期難波宮跡である事は間違いないがこの朱雀門及び左右に伸びる回廊がどのように構成されているのかは
残念ながら不明である。
場所は南門跡の真南に少し行くと公園が見えるがその奥にある学校が朱雀門跡です。
石碑をはじめとした遺跡の表示は全く無いので知るひとぞ知る隠れスポットです。
難波宮に足を踏み入れたら是非一度訪れて欲しいスポットです。
役所

東西5.50m、南北8.76m以上の東と来たに廂(ひさし)のある掘立柱の建物で、
床は無く、土間のままで役人が事務を執(と)る官衛の建物であろう。

KKR HOTEL OSAKAの遺跡庭園のマップです。

ホテルのオーナーの理解があったからこそ残った私設の遺跡庭園で
難波宮の北東(上の地図でいう東の青い箇所)の遺跡です。
MAP

上の地図上部は難波、遺構こそ出ていないが下部は仁徳朝の高津宮の存在の可能性を示す場所。
難波宮周辺の●は木簡「戊申」発見現場。●は平安殿及び内裏一帯。
●は南門、●は朱雀門。 難波宮内裏東方遺跡は●、役所跡は●で表している。
これらの●は私有地に建物のオーナーの理解により遺跡公園が建設されている場所。
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